LOGIN「おや、今日は洋服をお召しになられているのですね。珍しい」
部屋に入るなり、先生は私の格好に
今日はいつもより早く帰宅できたからと気合を入れてお洒落をした私とは対照的に、三日ぶりの先生は、相変わらず灰色の着物に黒い羽織という飾り気のない出で立ちだった。家庭教師に来ているだけなのだから当たり前だし、先生はそれでも様になっているから文句などないけれど。もしも願いが叶うなら、先生の洋装も見てみたい。瑞希くんのような背広もきっと似合うだろう。
先生が羽織を脱ぐと、雨の香りに混ざってほんのりと梔子の香りがした。先生はいつも、どこまでも、普段通りだ。
「今日も体調は良さそうですね」
先生は私の顔色を見るなり、私の洋服姿を見た時よりも美しく笑った。それだけで、せっかく着飾ったのにと燻っていた思いなど簡単に霧散してしまう。
先生は、私の見た目よりも心身の健康を喜んでくださる人なのだ。それはなにより誠実にも思える。瑞希くんとは違う、恋愛感情のない純真な誠実さ。
先生は長椅子に体を預けることなく、鞄からいくつかの本を取り出した。今日の教材だろうか。見たことのない分厚い本が一冊混ざっている。
先日、月に一度の特別な課題を終えたばかり。今日から一か月間はまた通常の授業に戻る。それでも、飽きがこないようにと工夫を凝らしてくださっている先生の課題を見る瞬間は、いつもほんの少しの優越感と喜びに満ちていて好きだった。
「あっ!」
先生が私の机に重ねていった資料や課題の数々に私は思わず声を上げる。
表紙に美しい船の絵が描かれた本だ。英語で表題が書かれている。
「先日、英語の授業が始まったと奥さまからお聞きしました。お嬢さまはすでに蘭語に親しんでおりますから、差し当たり問題はないだろうと思いまして、教材の代わりに」
「これ、どうしたの?」
「知り合いに洋書の
「さすがは先生。お知り合いにも聡明なかたが多いのね」
私は早速本を開く。ぱらぱらとめくっていくと、最後に壮年の男性の肖像画があった。
「このかたは? 作者かしら?」
「いいえ。本の主人公だそうですよ。世界を一周した将軍なんです」
「へえ……、すごいわ。読むのが楽しみ! 先生、貴重な贈り物をどうもありがとう」
「喜んでいただけて良かったです」
私は本の表紙をもう一度なぞる。私の体では世界を一周することなど夢のまた夢だろうが、この本さえあればどこへでも行けるというわけだ。読書中、心は自由だから。先生のささやかな気遣いが染みる。
先生は、私を心配してもいて、病弱であることをどうしようもないとも思っているが、だからといって自由や将来を奪うことはしない。むしろ、こうして多くの選択肢を与えてくださる。まさに家庭教師の鑑だ。
対して、瑞希くんは――考えて、私の口からは思わず溜息が漏れた。
「はあ……」
今日の帰路、車内での会話を思い出す。
看護婦以外の仕事ならどうだと持ち掛けられた。いつもとは違う切り口だと話を聞いてみれば、瑞希くんの言う仕事は刺繍や文筆、絵画など、家の中でできる趣味のようなものばかり。それらの職業を馬鹿にするわけではない。私を家に閉じ込めておきたいという彼の思惑が透けて見えることが、どうしようもなく虚しかった。
「お嬢さま?」
「ごめんなさい、ちょっと嫌なことを思い出しただけよ」
言葉を濁せば、先生の眉根に皺が寄る。
「この本が気に入らなければ、別の本をお持ちしましょうか?」
「違うの! そうじゃないわ。この本は本当に嬉しい。思い出したのは、全然関係のないことだから」
私は先生に回収されまいと本を胸元で抱きしめる。
先生は私の様子に苦笑しつつも、教師が孤立している生徒を見るような、怪我をした子供を親が見るような視線をこちらに向けた。
つまり、存外に「抱えている問題を言うように」と促しているに等しい。
黙ることも、隠すことも、ごまかすことも選択肢として浮かんだが、白状しなければ授業が受けられないかもしれないという予感が脳裏をよぎった。そうなれば、先生は呆れて帰ってしまうかもしれないという恐怖も。
窓を叩く雨音が少し強さを増す。
しばらく考え、折れたのは私だった。
「……以前、瑞希くんのことをお話したでしょう?」
「丸井さまですね。婚約者の」
「ええ。その、彼は……、あまり私が看護婦になることを良く思っていないのよ」
先生には今まで黙っていた。家庭教師として来てくださっている先生に対し、婚約者が、私が勉強することを快く思っていないのだと告げるのは失礼なように思えたし、なにより、先生に婚約者のことを話したくもなかった。
私が好きなのは、先生だから。
けれど、背に腹は代えられない。
実のところ、私の思いに共感してくださった先生が味方になってくださればと、一縷の望みもある。
言うなれば、私は先生に甘えたかった。
「私の体じゃ無理だって。働くことはとても大変で、そんなに甘くはないと」
「なるほど」
先生は私の吐露を聞き、窓の外へと目をやった。今日も梔子の花が雨に打たれながらも咲き誇っている。
沈黙を破ったのは、先生の掠れた声だった。
「お嬢さまは、丸井さまのことをお嫌いですか? 心底恨んだり、憎らしいと思ったりすることは?」
婚約者相手に無礼だと承知で問うているのが声の震えでわかった。それでも、先生は先生なりの覚悟で聞いてくださったのだろう。硬い表情から、私が本当に瑞希くんを嫌いなら婚約を解消する手立てがある、そう教えるのが教師の役目だと思っているようにも見えた。
だが、残念ながら私が心底恨み憎くんでいるのは瑞希くんではない。
私が恨んでいるのは、私自身だ。
彼の意見や価値観が私にとって多少窮屈なものでも、それこそが私を愛してくれている証拠なのだと理解している。
なのに、瑞希くんを愛すどころか好きになれない私こそが、最も醜い生き物だ。
瑞希くんを嫌うなんて考えたこともない。
私が首を左右に振ると、先生は安堵したように顔をほころばせた。
「ならば、大丈夫ですよ。僕は、たしかにお嬢さまが良い看護婦になると思っています。ですが、それと同時に、丸井さまの良き奥さまにもなられると思っております」
先生が心の底から私と瑞希くんの婚約を望んでいるのだとわかって、やはり、先生に愚痴などこぼさなければ良かったと後悔の念が募っていく。
先生も本当は、私が看護婦になる必要などないと思っているのだ。応援も、支援もしてくださっている。私の学力や能力を認め、看護婦になる資格があるとも信じてくださっている。
同時に、瑞希くんと結婚し、夫婦になって、医学から離れて穏やかに静かに暮らす。それだけでも良いと思っているのだ。
私が看護婦にならずとも、先生は喜ぶ。喜べる。
その事実に気づいてしまったことが苦しく、私は力なく笑った。
「……ええ、ありがとう」
先生が喜んでくださるのだ。ならば、私は瑞希くんとの婚約を破棄することなどできない。
看護婦になることも、諦める日が来るかもしれない。
それでも。先生のためなら私は、なんだってしてしまえるのだ。
昨日、先生との外出で熱に浮かされているような気分になっていたが、どうやら気のせいではなかったらしい。 小雨の降る朝、私は熱を出した。 心臓移植を受けてから十年。退院して五年。これでも元気になったほうだが、虚弱な体質は変わらない。 無茶をしたつもりはなかったが、慣れない人ごみに疲れたのかもしれない。「これじゃ、本も読めないわね」 喉が引きつって声が掠れた。寝台の脇に置かれた袖机へ手を伸ばす。水差しから水をグラスに注いで飲むと少しばかり気が晴れた。とはいえ、倦怠感のせいか体は重く、この程度の動作ですら胸が痛むほど鼓動を速める。 窓を叩く雨音を聞く以外にできることもなく、私は目を閉じる。昨夜はあまりうまく眠れなかった。発熱で体力も奪われているらしい。呼吸が落ち着くと、簡単に睡魔が襲ってくる。 ――私は、夢を見た。 私は古い家の縁側に青年と腰かけている。庭には満開の白い梔子。私たちは、それを眺めるのが好きだった。 風に吹かれてふわふわと揺れる花弁を見て、青年が笑った気配がする。「見て。雪みたいだよ」「雪?」「白くて、綺麗で、冷たい氷の雨なんだって。いつか一緒に見てみたいね」「うん!」 風が止むと私は花を愛でることに飽きて、お茶請けのあんこ玉を頬張った。 夢中になっていると、隣に座る少年が「僕のぶんも食べていいよ」と私にお菓子を差し出してくれる。 彼の顔は逆光のせいでよく見えない。が、私はその顔をよく知っていると思う。私の頭を撫でる優しい手つきも。 梔子の香りと
百貨店の最上階にあるカフェーは落ち着いた雰囲気だった。蓄音機からピアノの曲が流れており、香ばしい豆の匂いと煙草の匂いが空気を満たしている。食器のぶつかる控えめな音と歓談の声がそこかしこから聞こえ、女学生の身で入るには少し勇気が必要だった。一人では尻込みしていたかもしれないと先生に言えば、先生はふっと目を細めた。 窓の外から街が見下ろせる席へ案内された私たちは、その眺めを存分に味わってから、食事を注文した。私が紅茶とシベリアで、先生は珈琲。 待っている間、話題を切り出したのは先生だった。「美羽さんはいつまで僕を先生と呼ぶのです?」「へ?」 想定外の質問に瞬きを繰り返すと、先生が喉をクツクツと鳴らすように笑う。私の知らない大人っぽい笑いかただった。「対等な関係をお望みだったのでは?」「あっ!」 私が「先生と生徒の立場は関係ない」と豪語したことを引き合いに出されたのだと気づくと、先生は賛同を求めるように片方だけ口端を持ち上げた。「……で、でも、先生は先生だわ」「では、僕もお嬢さまと?」「それは……」 名前で呼ばれたほうが嬉しいに決まっている。だが、それを伝えるのは告白しているようなものだ。 私は恋熱に浮かされた頭をなんとか働かせ、「先生こそ」と矛先を変えた。「先生こそ、対等に扱うと言っておきながら、まだ敬語だわ」「僕は対等な相手にも敬語ですよ。そのほうが楽なんです」「家族にも?」「ええ。美羽さんも、ご両
本屋は多くの人で賑わっていた。ラジオやテレビといった娯楽も少しずつ普及してきたけれど、まだまだ本は主流だ。特に最近は洋書が手に入るようになり、一層賑わっているように思える。 普段は穏やかな先生も、本屋の大きな陳列棚を前に珍しく喜色を目に浮かべている。どこか落ち着かない様子で店内の地図を確認した先生が店の奥を指した。「辞書はあちらのようですね」 立ち読みする人でごった返す雑誌の列を抜けていく。私も物珍しさに時折足を止めながら、先生の後を追う。先生は決して私を置いていかないよう、時々後ろを振り返っては私の姿を確かめてくれた。私が先生を見失うはずなどないし、そもそも先生はよく目立つので必要などないのだが。少なくとも、女性たちがコソコソと噂話をしているほうを辿れば、必ず先生がいる。 先生はたしか、今年で三十五になると言っていた。私が十八になる年なので、十七も離れていると常々先生が口にするのは間違いではないのだが、どうも先生は世間一般に見ても三十五には見えない。線の細さと淡く消えそうな雰囲気が少年のように見せているのか、単に先生の美貌が若々しく見せるのかはわからないが。 ――私なんかより、よっぽど先生のほうが誰かにさらわれそうだわ。 辞書が並べられた一角で私を待つ先生の隣に立つと、先生は苦笑していた。「こんなにも人が多いとは思いませんでしたね」 すでに疲労の色が見える。人の多いところは得意ではないのかもしれない。あるいは、普段は天界のような場所で過ごしているか。少し浮世離れした雰囲気があるし、隠居しているようにも思えるから、あながち間違いでもないかもしれない。先生から聞く外の話は、いつだって、天気の話か季節の話、気温や植物や医学や小説に関することが多く、家族や知人のことは少ない。先日登場した洋書の蒐集に余念がない知人の話も初めて聞いたくらいだ。「先生は、あまり外へ出ないの?
週末はすぐに訪れた。 先生があらかじめ話をしておいてくださったらしく、両親からはすんなりと外出許可が出た。 意外だったのは瑞希くんだ。てっきり反対されるかと思っていたが、彼は理由を聞くと渋々ながらもその場で了承してくれた。 家庭教師が男性であることは瑞希くんも知っているし、なんなら瑞希くんは先生のことを良くは思っていない。私を看護婦にしたくない瑞希くんにとって、医学を教える先生の存在は決して有益ではないからだ。 けれど、瑞希くんは熟考したのち「みぃのためだもんな」と言い聞かせるように承諾した。条件付きで。 当日は瑞希くんに送り迎えをさせること。それも、暗くなる前には必ず迎えに来るという。さらには、買った辞書を見せること。その日あったことを教えて欲しいとも言った。 そんなわけで、私は今、瑞希くんの車で集合場所である百貨店へ向かっている。梅雨の時期には珍しい晴天が車の窓の向こうに広がっている。 今日、先生と買い物をする百貨店は、私の父が経営し、瑞希くんの会社が卸しをしている。中心地にある瀟洒な建物で、私も両親に連れられて何度か行ったことがある。もしかしたら、そうした場所を先生が指定したことも、両親や瑞希くんが私を送り出してくれた理由の一つかもしれない。先生のこうした気遣いに救われている。「俺の仕事がなければ、喜んで付き合ったのに」 瑞希くんは拗ねた口調でこぼした。 街に近づくにつれ、人の往来や車の数が増え、外は賑わいを見せている。 休日でも仕事に邁進している瑞希くんは恨めしそうに外を歩く人々を見つめていた。「ただでさえお忙しい瑞希くんに、そんなお手間は取らせられませんわ」「別に手間じゃない。みぃのためなら
それからの授業内容はあまり覚えていない。 先生に教わって数学と理科の問題を解いていたはずだが、私はただ言われるがままに手を動かしていたようなものだった。 先生も、そんな私の体たらくぶりに気づいたのだろう。「お嬢さま」 普段、私が問題を解いている最中に声をかけることなどしない先生が、いつもよりもはっきりとした声で私を呼んだ。 ぼんやりと問題集を見つめていた私は戸惑いながらも手を止める。 先生を困らせてしまったのではないか。先生を怒らせてしまったのではないか。がっかりさせてしまった? それとも……。 先生のこととなると、途端に悲観的になってしまうのは悪い癖だ。「お嬢さま、調子が優れないようでしたら今日は中止にしましょう」 私が俯いたままでいると、先生の声音はいつもの穏やかなものになる。「お嬢さまは普段からよく勉強なさっておられますし、多少休んでも問題はありませんよ」「……平気よ」「では、他に気がかりでも? たとえば、丸井さまのこととか」 思わず先生を見つめてしまった。そんな風に踏み込んだ質問をされると思っていなかったし、そう思われているとすら想像していなかったから。 ――違う。先生のことよ。 口から本音が飛び出しそうになって、奥歯を噛みしめる。 先生は私の反応を是ととったのか、なんとも複雑な面持ちで長椅子から立ち上がった。 私の文机の隣へ立ったかと思うと、先生の手が私の背後へ回った。
「おや、今日は洋服をお召しになられているのですね。珍しい」 部屋に入るなり、先生は私の格好に眦を下げた。瑞希くんなら必ず可愛いと褒めてくれるだろうが、先生は決してその言葉を口にはしない。微笑ましげな表情を見るに、悪いとは思っていないのだろうが、所詮、子供や妹に向けるような類のものだろう。 今日はいつもより早く帰宅できたからと気合を入れてお洒落をした私とは対照的に、三日ぶりの先生は、相変わらず灰色の着物に黒い羽織という飾り気のない出で立ちだった。家庭教師に来ているだけなのだから当たり前だし、先生はそれでも様になっているから文句などないけれど。もしも願いが叶うなら、先生の洋装も見てみたい。瑞希くんのような背広もきっと似合うだろう。 先生が羽織を脱ぐと、雨の香りに混ざってほんのりと梔子の香りがした。先生はいつも、どこまでも、普段通りだ。「今日も体調は良さそうですね」 先生は私の顔色を見るなり、私の洋服姿を見た時よりも美しく笑った。それだけで、せっかく着飾ったのにと燻っていた思いなど簡単に霧散してしまう。 先生は、私の見た目よりも心身の健康を喜んでくださる人なのだ。それはなにより誠実にも思える。瑞希くんとは違う、恋愛感情のない純真な誠実さ。 先生は長椅子に体を預けることなく、鞄からいくつかの本を取り出した。今日の教材だろうか。見たことのない分厚い本が一冊混ざっている。 先日、月に一度の特別な課題を終えたばかり。今日から一か月間はまた通常の授業に戻る。それでも、飽きがこないようにと工夫を凝らしてくださっている先生の課題を見る瞬間は、いつもほんの少しの優越感と喜びに満ちていて好きだった。「あっ!」 先生が私の机に重ねていった資料や課題の数々に私は思わず声を上げる。 表紙に美しい船の絵が描かれた本だ。







